久留米市野球連盟のあゆみ

75年のあゆみ

 久留米 は、古くから有馬21万石の城下町として栄えてきました。その有馬藩15代当主有馬頼寧公(農林大臣時代、競馬有馬記念創設者)は、戦前のプロ野球東京セネターズ(現日本ハムファイターズ)のオーナーをつとめられ、その功績により日本野球殿堂入りを果たされています。このように久留米は昔から野球が盛んであり、大正4年豊中球場で開催された第1回全国中等学校野球大会(現、全国高等学校野球選手権大会)に、九州代表として、唯一久留米商業(久留米商業高等学校)が出場、第2回大会も中学明善(明善高等学校)が出場し、久留米が当時の九州の中等学校野球界のリーダー的存在でありました。

その後BSタイヤ(株)野球部が、昭和17年11月19日『明治神宮奉納全国軟式野球大会』で優勝を成し遂げ市民の間では急速に野球熱が広がりました。戦時中から終戦と重苦しい時代でしたが、復興に立ち上がり平和と明るい日差しが見え始めるのにはそう時間がかかりませんでした。野球はいち早く始まりましたが、しかし用具がないユニフォームもない、当時米の収穫時に使われていた“唐米袋„のような生地で作ったユニフォームや、またグローブ、スパイクなど粗末な布製で帽子は戦闘帽でした。しかし野球をやりたい一心で楽しくプレーし、少しずつ喜びを感ずるようになったのです。

昭和21年
 全日本軟式野球連盟が発足と同時に久留米支部も加盟、BSタイヤ(株)、久留米市役所、日本ゴム(アサヒコーポレーション)、日華ゴム(ムーンスター)、古瀬、青果市場、大靴実業、明治座、電話工事局(NTT)、池田屋染工場、あけぼの商店街、日本通運久留米支店など10数チームが登録し、おおいに活躍しました。昭和23年頃には、裁判所、久留米警察署、近藤塩元、玉置材木店など多くのチームが加わり野球の隆盛時代を迎えるに至ったのです。

昭和23年
 第3回国民体育大会開催を契機に戦前からの久留米市体育協会が強化され、軟式野球部(その後硬式野球も加入)初代部長に錦織克成氏が、事務と実務担当に楢原熊雄氏がそれぞれ就任され、楢原氏は現在の久留米市野球連盟が昭和41年に設立されるまでその実現と野球界発展のため尽力され多大な貢献をなされました。

昭和39年
 東京オリンピックを境に市民のスポーツ熱が急速に高まり、多くの競技団体が誕生したのを機会に、市当局の指導により昭和41年1月に久留米市野球連盟、初代会長小松 久氏として新たに発足しました。発足当時は40チーム足らずでしたが、現在では社会人が80チーム、少年(中学)19チーム、学童が38チームと県内最大の登録チームを有する支部に成長し、試合数も年間3000試合を消化するほどになりました。

 また当時は設備が不備でBS球場、小頭町公園、中学、高校、大学のグランドなどで大会を催していましたが、久留米市当局の野球に対する理解と努力により、昭和49年に久留米市野球場を始め、リバーサイドA、Bコート、桜花台運動公園野球場等々が完成し、平成2年に開催された『第45回とびうめ国体軟式野球競技』を大成功裏に終了することができましたことは久留米市野球連盟にとりましては誇りであり大きな自信となりました。

平成9年
 新宝満川球場A、翌年、新宝満川球場Bがそれぞれ新設され、平成10年に『高松宮賜杯第42回全日本軟式野球大会2部』が、久留米市を中心に、久留米市野球場、新設なった新宝満川球場A、B、桜花台運動公園野球場などで全国から32チームを迎えて盛大に開催できたことも久留米市野球連盟の更なる発展に大いに役立つこととなったのです。

 理事長の中村は、久留米市野球場の改修を、当時久留米市の財政企画部長であった江藤守國氏(元久留米市長)に野球場の改修の必要性を訴えました。江藤氏は優秀な行政人であると共に根っからの野球の理解者であり、愛好者でもありました。自らは、浮羽高校、九州大学野球部のエースとして大活躍、社会人野球を経験し久留米市役所に就職、ここでも野球部の要として活躍しました。彼は、野球場の改修を快諾し、今日の両翼98mセンター122m本格的な電光掲示板、並びに外野の芝の改修を直ちに実行しました。

一方、新宝満川球場の建設でわすれてはならないのが、当時久留米市の公園緑地課課長樋口孝義氏です。彼は、八女工業高校時代は野球部で活躍し、久留米市役所に就職後も選手、監督としておおいに活躍しました。その経験を生かし、いち早く建設省(現国土交通省)の上層部に新球場の建設の必要性を働きかけました。市役所内で難色を示す人々を説得し、新宝満川野球場A・B二球場の建設を実現しました。この二つのことが、後々の全国大会誘致へと結びつくこととなりました。

平成13年
久留米岩田屋野球部チームは、新潟で開催された『天皇賜杯第56回全日本軟式野球大会』に再び福岡県代表として出場しました。同年、久留米市役所チームも、長崎県で行われた第21回九州ブロック国体軟式野球一般Bで優勝し、宮城県で開催された『第56回国民体育大会軟式野球一般B』3位、また18年同久留米市役所チームが『第57回全国官公庁野球大会優勝』という素晴らしき成績を収めました。平成14年
 県連待望の『天皇賜杯第57回全日本軟式野球大会』を高円宮憲仁親王殿下のご臨席を賜り、全国より56チームの精鋭を迎え四度全国大会規模を当久留米市で開催することができました。会場の準備から競技運営並びに大会運営、そして、なによりも殿下の歓迎の準備から、『歓迎の夕べ』お見送りまで、全て磐石に滞りなく無事終了できましたことは故五味博一会長を始め全軟連役員、福岡県連の役員、審判員、登録チーム皆さんのご協力の賜物と感謝申し上げます。

 思えば、平成元年の『第11回西日本軟式野球大会』、2年の『とびうめ国体』10年の『高松宮賜杯第42回全日本軟式野球2部』そして、14年の『天皇賜杯第57回全日本軟式野球大会』、平成17年第『7回全日本還暦野球軟式野球大会』、平成19年の『第29回西日本軟式野球大会』、平成23年『高松宮賜杯第55回全日本軟式野球大会2部』そして、令和元年『高松宮賜杯第63回全日本軟式野球1部』30年間で8度も大規模の全国大会の主会場地として責任が全う出来ました事は、当連盟にとりましては大きな自信となり、ここに名実ともに県内随一の支部に発展し今日至ったと自負しています。

このように施設の整備や野球を楽しむ環境が整うとともに、チーム力の向上にも力点を置き着実に効果を上げてまいりました。平成4年(株)筑邦銀行が『政府管掌健康保険軟式野球全国大会3位』、平成7年7月22日、23日に北九州市で行われた『天皇賜杯第50回全日本軟式野球福岡県大会』で久留米岩田屋チームが見事優勝し、9月8日から山口県で行われた『天皇賜杯第50回全日本軟式野球大会』に当連盟より初めて出場するという快挙を成し遂げました。

一方学童では、平成4年に西国分ウエストナインチームが、沖縄県で開催された『第5回九州学童軟式野球大会』で優勝。平成11年に高良内レッドタイガースチームが『第12回九州学童軟式野球大会』で優勝。津福ジュニアースラッガーズチームが平成10年の『第3回高野山旗西日本学童大会』、14年の『第7回大会高野山旗西日本学童大会』、山川リトルスカイヤーズチームが『第23回しまなみ学童軟式野球大会』でそれぞれ優勝を果しています。22年に宮ノ陣フラワーズが『高円宮賜杯第30回全日本学童野球大会』で準優勝するなど、それぞれのチームの活躍を心より賞賛するとともに、今後も数多くのチームが全国大会や九州大会に進出することを望みながら、より一層に、チーム数の拡充や、チーム戦力の強化を目標に今後邁進していきます。

平成15年
 2月の福岡県連盟の評議員会において、中村敏治氏が県連理事長に就任し、13年に久留米市の暖かいご理解のもと、久留米市野球場内に県連としては、初めて県連事務局を構えることとなりましたことは、今後久留米市野球連盟の組織の基盤を盤石のものにしました。平成21年
 中村敏治氏が、全日本軟式野球連盟の常務理事に就任し、26年にはフィリピンで開催された第8回U12アジア野球大会『侍ジャパン』の団長を務め準優勝を果たした。このことが後に26年11月久留米で日韓親善交流軟式野球大会、27年8月にはスリランカ(中学)チームとの国際交流試合を開催しました。これからも積極に国際大会を企画し、野球を通して交流を邁進してまいります。

平成28年
 2月の評議員会に於いて公益財団法人全日本軟式野球連盟の副会長に石原廣士氏が就任されました。このことを機会に連盟の更なる発展を目指してまいります。

 さて、間もなく支部発足75周年、久留米市野球連盟創立55周年を迎えるにあたり、
ますます久留米市野球連盟の果たす役割責任の重大さを痛切に感じつつ、青少年の健全育成並びに国際交流、生涯スポーツとしての軟式野球の普及発展を図り、市民の体力向上心身の健康を保持し、地域社会に貢献し久留米市野球連盟(久留米支部)一丸となり野球界、ひいては全日本軟式野球連盟、並びに全日本福岡県連盟の更なる発展に寄与していく所存であります。

2022年2月26日