支部の誕生

  1. 全日本軟式野球福岡県連盟は、70周年を迎えることになりました。 この記念すべき節目の年にあたり連盟をあげて祝福し、更なる発展の糧としたいとおもいます。 一口に70年といいますが、ここまでの道程は決して容易なものでなく、 経済的にも今日では想像できない幾多の苦難と屈折を克服して今日に至ったか、 その経緯は意義深いものであり、決して忘れてはならないと思います。 この先人の築かれた輝かしい歴史と伝統を汚すことなく、 スポーツの振興と青少年の健全育成、軟式野球の普及発展に我々は 一致団結し努力することを誓わずにはいられません。 >

支部の誕生

支部の誕生と功労のあった人 

 終戦の年、昭和20年9月福岡機械工業組合で、福岡県工場野球連盟を結成、市会議員の石橋鉄工所社長石橋正作が会長に、川原鉄工所社長の川原喜久夫が理事長に就任した。
翌21年2月、福岡県教育委員会体育課から第1回国民体育大会秋季大会が近畿地区で開催されるので出場するように要請があり、川原が県体協の常務理事となり、出場の準備に着手した。
同じく2月、福岡県工業野球連盟を発展的解消、福岡県軟式野球連盟が誕生した。川原喜久夫が全軟連福岡支部の支部長ならびに県連盟の会長、あわせて九州連合会の会長、理事長をも兼任し、自分の職務を放棄して、連盟発展のため尽力した。かくして県連は第1回国民体育大会に出場、全日本軟式野球大会(昭和23年より天皇賜杯全日本軟式野球大会)には第2回大会から参加したのである。
福岡県で開かれた第3回国民体育大会で川原は平和台球場の新設に努力し、食糧事情最悪の折から食糧、宿舎の委員長としてその重責を果たした。
翌24年2月、川原は一身上の都合で勇退、後任には毎日新聞西部本社の運動部長兼事業部長の井口新次郎が就任した。同年福岡県に天皇賜杯第4回全日本軟式野球大会を誘致、
北九州中心で開催されたとき、大いに活躍したが、26年4月、大阪本社転勤のため辞任した。井口はのち全日本軟式野球の常務理事、副会長に就任、全軟のため多大の貢献を果たした。
その後継者として同新聞社事業部の的野勝巳が県理事長と九州連合会の理事長に就任した。彼は選手の強化育成、審判員の技術向上につとめ、特に選手のグランドにおけるマナーには厳しく、多大の効果を挙げている。37年には当時の会長であった許斐次夫(西日本新聞社常務取締役、故人)とともに北九州市制記念行事として、九州都市対抗野球大会を新設、そのほか福岡県選手権、県1,2部大会など各種大会を挙行するなど小柄な身体で
九州を飛び回り組織の拡充に努めた。また全日本軟式野球連盟の常務理事として大いに活躍した。
彼は昭和49年、持病の高血圧悪化で退任するまで実に26年間その任に当たり、現在の県連盟の地盤を確固たるものにした。
後任には連盟の影の功労者といわれた西日本新聞社出身の日隈又蔵が就任、永倉三郎、後藤 清、富安直助(何れも当時九州電力副社長)の三代の会長の下で組織の拡充、とくに少年野球の普及振興に尽力した。55年第2回西日本大会の開催を最後に持病の糖尿病の悪化で同年死亡した。まさに一生を軟式野球に尽くした人であった。日隈在任の間、彼を補佐し、とくに審判部の強化、指導に尽力した堀川、秋吉副理事長の功績もまことにおおきなものがあった。 
56年、その後を継いだのが柴田春雄である。彼は県理事長、そして61年から九州連合会の理事長、全日本軟式野球連盟常務理事、とくに全軟ナンバー2の総務委員長に就任した。この柴田春雄の登場は県連にとっては極めておおきものとなった。彼の生来の温和な人柄、卓越した指導力、そして常にバランス感覚を持って何事にも対処するその行動力、また、全軟上層部にきわめて強いパイプを持ち、なによりも多くの人々から厚い信頼をうけていた。とくに、故長澤正夫名誉会長、故五味博一会長、故杢 正一、枝川憲寿両専務理事等々、常に彼らのよき相談役として全軟の健全、発展に寄与するとともに、九州は一つを合言葉に九州ブロックの連帯感を強固なものとし、勇県福岡の名をほしいままにした。 ここに県連はじまって以来の黄金期を迎えることとなる。
柴田は、平成元年、西日本大会、翌2年のとびうめ国体の開催に心を砕き、チームの強化、組織の整備、拡充、後進の指導をつとめこれを立派に成し遂げ、国体で念願の総合優勝に導いた。
平成10年高松宮賜杯第42回全日本軟式野球大会をはじめて福岡県で開催し、開催の準備、開会式、競技、閉会式と柴田の豊富な経験と指導のもと成功裏に終了することができた。
その翌年、柴田の努力と他県の事情により、連盟悲願の天皇賜杯大会の平成14年福岡開催が決定すると、みな一度諦めていただけに県連挙げて喜んだ。柴田は、全軟の役員でもあったので、名誉総裁高円宮憲仁親王殿下、同妃殿下とは親交があり、それ故いち早く宮内庁に働きかけて、高円宮殿下のご臨席を願いでて実現した。
わずか3年の間に、大会資金の調達、会場地の決定、迎え撃つ地元チームの強化、審判の更なる技術の向上、選手、役員の宿泊、殿下の送迎並びに宿泊、殿下の歓迎式典の準備等々、すべて柴田のもとで一丸となって大会を迎えることができた。
しかも大会当日から6日間晴天に恵まれ順調に日程が進み、決勝戦は高円宮憲仁親王殿下にご観戦をいただき、表彰式にも臨まれ優勝、準優勝チームの選手にメダルを授与していただき大会を大成功裏に終了することができました。これも、柴田理事長の賜物であり、また、西日本大会、‟とびうめ国体„、高松宮賜杯、天皇賜杯など15年間で4大会の会場地として、その準備、運営に積極的に協力いただき、それぞれの大会がすべて盛会に開催できたのは、久留米支部の役員、審判員の並々ならぬご努力、ご協力が無ければ成しえなかったと思われる。
また、柴田は、栗本昭雄副会長、川嶋 隆、品川重敏、福永 鈔3人の副理事長のよきパートナーに恵まれ存分にその手腕を発揮することとなる。栗本は、温厚な人柄が多くの人々に好感を与え、連盟の融和をはかった。とくに彼は、天皇賜杯大会の開催に際して自らが培ってきた多くの経済界の人々(福岡7社会)にはたらきかけ資金調達を積極的に成し遂げた。品川は、豊富な経験とその誠実な人柄で県連全域の意識の高揚に勤め連盟の組織固めに貢献した。福永は審判長として県全体の審判技術向上に情熱を傾け、平成2年の“とびうめ国体”、平成10年高松宮賜杯、平成14年の天皇賜杯などの審判長を歴任しその職責を見事に成し遂げた。とくに福永は昭和63年全軟の審判技術委員、平成2年審判技術副委員長を平成12年まで歴任した。一方、川嶋は昭和40年頃から、的野、日隈、柴田歴代理事長のもとで事務局長を務め、今日の県連財政基盤を磐石にするとともに、彼のたゆまぬ日々の努力、勤勉な性格によって、貴重な文献、資料が整理され残された功績は多いに評価されている。また、常務理事であった大隈君雄、倉富弥彌助、中嶋道信(3氏とも故人)、永野直義4氏の存在も忘れてはいけない彼らは県連の発展に大いに寄与し、柴田理事長のもとで活躍された。
なお、62年当時副会長であった河村 明が、富安直助の後任として会長に就任したが、‟とびうめ国体„を前にして平成元年死去、正木敬造(元西日本新聞社販売局長)が会長に就任、九州連合会をも兼務し温厚な人柄で全九州をまとめ、連盟発展のため全力を傾けた。平成8年高松宮賜杯大会を前に死去、後任に同じ西日本新聞社の島田博雄が会長に就任、10年の高松宮賜杯大会、14年の天皇賜杯大会まで会長を務めた後に勇退した。
平成15年、第58回全日本軟式野球福岡県連盟評議員会において、島田の後任に、
柴田春雄が県連会長、九州連合会の会長に就任した。柴田のあとに中村敏治が理事長に就任すると同時4月1日に県連悲願の事務局をはじめて久留米市の久留米市野球場内に設置した。
この年5月第25回西日本軟式野球大会が北九州で開催され、中村は新しい役員とともにその開催に尽力し無事終了することができた。
平成17年県連創立60周年記念式典を盛大に開催。19年には第29回西日本軟式野球2部大会、23年には高松宮賜杯第55回全日本軟式野球大会2部、そして、25年北九州で第24回全日本マスターズ軟式野球競技を開催し、何れも大成功に終了することができました。今日のこの県連の発展を思うとき、忘れてはならないのが、連盟の役員、審判員はもとより、ボールメーカー3社、即ち、ダイワマルエスボール、長瀬ケンコーボール、内外ゴム、と共同写真企画の4社の並々ならぬ協力があってであることを忘れてはならない。これからの、更なるご助力を願いながら、県連は役員、審判員とともにチーム選手に夢を与え、一人一人が軟式野球を楽しんでできる連盟を目指し、次の80周年に向けて大きく羽ばたこうとしている。